神伝流は、戦国時代に水軍の兵法として生まれたと考えられるが、江戸時代初期、伊豫の国大洲藩(現在の愛媛県大洲市)藩士加藤主馬光尚によって、陰陽中和、水陸一致の理が奥義として確立された。神伝流の名は、教義を記した「教語」にみられる記述「天津神の伝にして万法の宗源なり」に由来するが、前半の言葉は、神話の「国生み」にわが国の発祥として登場する伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、皇祖である天照大神(あまてらすおおみかみ)を創造するために執り行った身滌(みそぎ)を伝えるという意味である。また、後半の「万方の宗源なり」については、身滌の際に命(みこと)が「上ツ瀬で執り行った」(身滌伝より)ことこそ陰陽中和、中庸の思想として、水練のみならず、あらゆる正理正道の基であるということを意味している。
江戸時代末期に神伝流は松山藩へも伝えられ、松山での神伝流初代に当たる伊東祐根および次代の伊東祐雄は優れた游術家であったばかりでなく他藩の士にも教授したため、その名声は全国に聞こえたとも伝えられている。この、大洲及び松山で継承された泳法が「神伝主馬流」あるいは単に「主馬流」と言いならわされていることは加藤主馬を流祖としているからであり、泳形が立体および平体を基本としていることは、身滌式の形に由来するためと考察されている。
大洲を流れる肱川で発達した「主馬流」には、瀬戸内・松山において海游への応用研究が行われたと考えられるが、幕末、海国防備の逼迫する時代に、津山藩士・植原六郎左衛門正方(翼龍)が「皇朝神征水軍練法」の名の下により実用性の高い横体泳法を基本とする一流の印可免状を授けられ、これが現在「神伝流」として伝えられるものになる。
翼龍の死後、津山では明治11年に游泳社が設立され、翼龍の薫陶を受けた旧藩士によって神伝流の継承が始まり、後の津山遊泳会の基礎が築かれる。その後、同会からは主に西日本各地の神伝流游泳会へ指導者が派遣されることになる。
一方東京では、明治12年に翼龍の三男・銃郎が隅田川に水連場を設立、翼龍の高弟らと共に東京帝国大学、第一高等学校、東京府立一中(現在の東京都立日比谷高校)にも指導を開始し、また日本游泳協会(後の「神伝流游泳協会」を設立した。
水練の技術は其の本唯一つの游方より出で変化活用窮りなきに至る。正体とは其の体のすなほにして正しく無理の有らぬを云ふ。三段とは草行真を云ふなり。九位とは水上を草行真と游ぎ分け又水中水底を草行真と游ぎ分くなり。故に是を仮に正体三段九位の游方と云ふなり。
神伝流の泳法は、すべての種目が草・行・真の概念で成り立っているが、これは、当流が身滌式に発祥するからである。当流の極意とする陰陽中和の起源に見立てて「真・草・行三段の游方」があり、詳しくは「天・地・人」の思想に倣って「陽にして剛」の天(真)、「陰にして柔」の地(草)、「天地の間に位する中和」の人(行)のあることが説かれている。
水上真游方(すいじょう しんおよぎかた)
※神傅流游書について
9世宗師伊東祐雄から10世植原翼龍に伝えられた神伝流遺法大略(様々な形式・様式を収録)には「水游伝」と称されているが、文久元(1861)年、植原翼龍は同じ内容のものを「神伝流游書」として幕府へ献上した。翼龍は同書中でも「游書」の名を用いているが、のちに後藤勘九郎(神伝流11世宗師)には「水游伝」として贈っている。