[神傳流游書]
此の游方は其の様直にして正しく厳なりと雖も聊も烈しからずやすらかに麗はしく始め終りともたしかにして、左右の足合て伸びたる時足の裏水に浮かむ事游方の花とする処なり。左右の手掻き切って伸びたる時手の先水に浮かむ事足の意に同じ。
真は如何にも正しく直なる処を宗として游ぐ故存外伸びるなり。依って自然水に当たる事も烈しき様に見ゆる故、未熟の者とり違へ真は強きものなりと思ふ類多し。中には又柔らかに游ぎさへすれば宣しと思ふ者あるも誤りなり。強弱共に味合有りて平日の鍛錬にある事にて求めて拵ふ可きものにあらず。強き一偏の所を修業する内よりも自然と柔らかみの出づるものなり、其の柔かみに非らざれば真の業とは云ひ難し。
何によらず単行真はあるものなり、其の内能く真行真の調ひてあるは書を認むるにあり。草は柔らかく見ゆれども筆の働らく所は定めて強かるべし。行はまた草より鈍し。真は又一段鈍かるべし。然しながら書の面を以て見る時は強きものの様に見ゆれども決して左様にてはなし、真書を認むるには毛の柔らかなる筆に十分墨を含ませ毛先をきかせ緩々と滞りなく正しく認むるものの由。惣じて何によらず道理といふものは一つなり。
当流にて伸び合ひと云ふ事を戯れ半分に致すなり。岸または筏の上に立ち、翡翠の如く真平に飛び込み左右の手をもって首を挟む様に手先を揃へて伸ばし足真にて伸びたる如く両足を揃へ伸ばして無心になりて伸び切る時は、板を流せし如く浮くものなり。浮いて後するすると伸び行くなり。其の味合の面白き事限りなし。若少しにても気分にこりあれば早く沈むものなり。体の沈む様なる事にては伸び難し。能く気分調ひさへすれば息の限り捨て置くことも決して沈むと云う憂なし、世俗休み游き等と称へ仰向になり聊か手足を動かして水をあやつり浮きて休むものあり。手足を動かざずとも仰になり身を捨ててある事なれば、沈む憂いなし。此の浮力は気分をためし見るに宜しき業なり。
未熟の内にも浮体という者あり。是は浮体を頼みに致すまでにて、気分の調ひし上の事にてなければ賞すべきにあらず。右浮体の者へ底業を致させ見る時は浮体を頼りに致す間数き事顕に相分るものなり。
沈むも浮くも其の心は一つにして強ひて求むるものにあらず。能々思慮あるべき事なり。先師も申されし如く、水は悟道の学諸芸の父母なりと。能々心を用ひ、水練を学ぶに於ては此の一業を以て志を得るに足りなん。慎みて修業せずんばあるべからず。 |
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「直にして厳」、しかし烈しからず麗しく、始め・終わり確実に伸びた時、足裏と手先が水上に浮かんでくる=「游方の華」
正しく直=思いのほか伸びが出るしかし、 「だから強い游ぎ」と思うのは未熟者 「柔らかならばよい」も誤り 強・柔(弱)両方とも有るべきだが、求められているものではない強きを修業するうちに自然に柔
物事すべてに真行草あり
その好例が「書」。草書は見た目柔らかだが強い。行書、真書(楷書)は表面上は強く見えるが、決してそうではない。真書は、柔らかな筆で毛先を効かせ、滞りなく正しく書くもの。
(伸びについて) 「伸び合い」という遊びを例にする 平らに飛び込み、 足をそろえて伸ばし 無心に伸びれば 板を流す様に浮いて伸びる。 気分に凝りあれば早く沈む。 沈むようでは伸びが出ない。 精神の調和あれば延々と浮く 俗に言う「休み泳ぎ(仰向け、手足を少々動かして浮く)」を例にする 手足を動かさずとも水に任せる覚悟あれば沈まない=精神の診断に好適
未熟者でも浮体という体質がある 精神に関係ないので誉める価値無し (底業をやらせれば馬脚を顕す)
沈む、浮くは別個の事ではなく、同じ道程の中にある 水は悟道の学 諸芸の父母 「水上真游方」を修業すれば、水練の目的は達せられる。肝に銘じて修業しなくてはならない。 |